針生一郎ミニ・レクチャー
昨年、光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」のキュレーターとなって、私はカタログと会場入口のキャプションに次のように書いた。「だれでも芸術的表現を発表する権利がある」。というのが、芸術と人権との最低のかかわりですね。ところが、どんな人でも抑圧や差別を超えて生きる権利があるということを、具体的に抑圧され差別され、あるいは殺された人に即して訴える芸術は、最も普遍的な価値を持ち、最も擁護されるべきもので、これが、まあ、つまり芸術と人権のかかわりの最高の状態だと書いたんですね。ところが、この最低の条件、だれでも芸術的な表現を発表できるということと、どんな人でも生きる権利がある、それを具体的に抑圧され差別され殺された人について訴えると、そういう芸術の間にはものすごい距離があります。
特に戦後日本では、両者をつなぐ回路が全然明らかになってないと思います。私は戦中派ですから、戦争中いわゆる滅私奉公という、私を滅ぼして公に尽くすという、この場合の公っていうのは天皇であり国家であったわけですが、そういうスローガンの下に敗戦の年、満19才ですが右翼でもありましたから、かなり深く侵略戦争に加担したことを深く恥じて、こういう上からの押しつけの公じゃあだめなんだと、私的なコミュニケーションの中から、私的表現の私的コミュニケーションの中から、民衆の自己規律としての公、パブリックというものを探らなければならないと考えて自然に批評家になった。批評を業として来年で半世紀になります。文学の評論の方が古いんで、来年で半世紀ですね。美術に関しては再来年で半世紀になります。そのほか、私の方からは領域を限定しないので、あらゆる芸術、時には政治経済なども論じてきましたが、なにしろ戦後の日本政府そのものが戦争の罪悪を全然突き詰めない、それについて正式に謝罪もしない。で、もっぱら忘れさせる。戦争の罪悪を忘れさせると、天皇制は絶対主義的天皇制から新憲法によって象徴天皇制に替わったけども、大体戦前と戦後とが連続してつながる。だから、戦前の栄光を保つために忘れさせようという政府の下で、つまり私的な表現を通して、その中に公的な論理を明らかにしていくということは非常に困難なんです。できないんですね。
もうちょっと立ち入って、これは光州ビエンナーレのカタログを書いた後のことになる。『戦争と罪責』という本を書いて第二次大戦だけじゃない、ベトナム戦争、湾岸戦争、ボスニア・ヘルツェゴビナ、チェチェンなどの民族紛争に至るまで非常に調べている野田正彰という精神病学者で比較文化学者と私は「新日本文学」で対談したんですね。で、彼はそういうあらゆる戦争や民族紛争の現地に行って、むしろ加害者の側に後遺症としての精神病が非常に多いということを知り、そしてその精神分析的批評というものが文学にもあってですねえ、あるいは精神分析的小説というものがアメリカでもヨーロッパでも1つの流れを形作っていて、ベトナム戦争そのほかの罪責、そのトラウマ(精神的な傷跡)と、そしてポスト・トラウマ・ストレス・ディスオーダーという、そのトラウマにかかわるイメージは繰り返しあらわれるが、孤立化、断片化して、そのほかの外界の刺激は見ても見ない、感じないと、拒絶反応でそれを拒絶してしまうストレス障害っていうものが必ず付きまとう。その両方を粘り強く解放していくそういう文学芸術の動きが欧米にも既にできているということをまた私は知ったんですね。しかし、それに対して日本だけが、日本人だけが、そういう虐殺、加害、抑圧などの経験者たちが復員後家族にも語らず、そして精神病にもならず、もう大半死んじゃったという状態であることを知った。この『戦争と罪責』という本は、中国の戦犯抑留所という所に捕えられて、つまり中国将兵だけじゃなくて、女子供まで中国の一般民衆を殺したために戦犯として抑留されて。で、中国は周恩来の方針で、将官、つまり大将、中将、少将というような偉いのは処刑することがあっても、大半は自己批判書を書かせて釈放する。ところが、その自己批判書が、上官の命令だとか天皇の命令だとかいうことじゃだめなんですね。その時殺したのが自分の責任だというところまで認めたら釈放するということで、数年間抑留されて釈放された人たちを、今だから70代、80代になってるような人たちをインタビューする。ところが罪の意識が非常に希薄だ、抽象的だ。つまり、その殺した民衆がどんな家族構成を持ち、どんな生活をしていたかっていうようなことを全然覚えてもいない。ただ銃剣を突き刺した時の感触とか、つまり、物としてしか覚えてないというのを知って、その中の何人かを一緒に殺しの現場まで連れていくわけです。そして、その殺した人の遺族や、あるいは近隣の人たちから「ああ、その人はこういう生活をしていて、殺された後に遺族はこういうふうな生活だった」という話を聞いて、やっと罪の意識が具体的になるというところまで書いた本なんです。私はこの対談の後に、なぜ日本兵だけがそうやって罪の意識にさいなまれて精神病にもかからない、なぜそれで済むのかということを追究、ずっと1人で考えてですねえ、結局、土壇場で上官の命令や天皇の命令、あるいは人間的感情を持ってるうちは一人前の兵隊じゃないんで、鬼にならなければならないと下士官に言われるというようなこともありますけども、それらはすべて口実であって、土壇場で露出するのは自分が生き残るためにはもう相手は女子供であろうとみんな、あるいは時には味方もけ散らし殺さなければならないという、そういう動物的エゴイズムといわれるものじゃないかと思い至ったんですね。だから、そのカオスをもう一度見詰めるのは自分でも嫌で、怖いから見詰めない。
ところで、その動物的エゴイズムは実は戦後大いに奨励されたっていうかな、滅私奉公が崩壊して。私が敗戦後最初に、これは光州ビエンナーレのカタログにも書いたんですけども、評論として感動したのは坂口安吾の『堕落論』でありまして。つまり戦争中、英雄や節操の堅い烈女というか節婦というか、そういうものだけがマスコミで報道された。当時のマスコミっていうのはラジオと新聞ぐらいですが、だけどそれはもともと嘘っぱちなんであって、悪は国内にまん延してたんだ。人間、堕落するからこそ人間的であるんで、人間には天国に通ずるような気高い面もあるけども地獄に通ずるような堕落する側面もある、だからこそ人間なんだ。で、戦争未亡人は進んでパンパンになれ、特攻隊帰りの勇士は闇屋でもやれというような、その『堕落論』に非常に感動したんですね。ですけども、それは占領下であって日本国家がまだ機能を凍結していた時代だから、これが自由の宣言になり得たけども、資本主義が戦前を上回る規模で復興をしますと、その消費者の私的な欲望に焦点を定めて商品を作り、宣伝してきますから、それらの解放された私的欲望は全部、大量生産、大量消費、大量伝達の機構の中に部分品のように組み込まれてしまった。私などが、私的な表現としてのコミュニケーションから民衆の自己規律としての公を作ろうとして批評を書いてきた。しかし、そんな評論なんか、つまり資本や企業が広告宣伝費を大量に掛けて作り出す商品価値、大衆性、欺瞞的な通俗的な大衆性というものにも到底かなわない。それに圧倒されてきたというのが戦後の歴史です。そしてそこに吸収されない欲求不満が、今、汚職官僚とか汚職社員とか、あるいはすぐキレて人を刺す少年とか、援助交際を求める少女たちとかそういう形で噴出していると思います。
論として言うならばですねえ、戦後すぐに芸術の世界では戦争で抑圧されていた人間の回復、主体性の回復という論でありました。吉本隆明が私より1つ年上ですけども、『高村光太郎論』という最初の著作の中でですねえ、戦争中に一億玉砕とか神州不滅とか言ってた指導者たちが、戦後たなごころを返すように平和国家、文化国家などと言い出すのを見て金輪際こういう知識人、指導者っていうものを信用するまいと思ったというふうに書いています。そうすると、時代がかわって支配的な言説がどうであっても、それで揺るがない主体性を作ることというのが彼の論拠になるわけですねえ。それにしては、彼の主体性も随分時代と共に変わってきてると思いますけども。私はその時に、私は、まあ、右翼であったせいもあるんだけども、自分は純粋に考え詰めて、そしていつでも死ねると思ったけども、それはやっぱり目隠しされた純粋さであって、一般の人たちはもう8月15日と共に戦争が終わって、一応平和な生活が戻ったということを無条件に手放しで喜んでるんだなと、そこに非常にショックを受けたんで。吉本の主体性論に対して私の敗戦のショックはむしろ客体性論とでも言うべきかなあということを書いたことがあります。
西洋のヒューマニズムの形骸だけを輸入してきたような人間の回復とか、個人的主体性とかいうものはですねえ、どうも私の実感としては戦後に、特に戦争の悪を忘れさせて覆い隠して、そしてひたすらそういう西洋ヒューマニズムだけをお体裁のように言っている政府の下で完全に画一化される、そういう条件は全然なかったというふうに私は思うんですね。だから1953年、「ニッポン展」というのに河原温という当時19才の青年が、ペン画ですけども『浴室シリーズ』という、ペン画でタイル張りの浴室から妊婦、足のない妊婦、腹の膨れた妊婦や少年などの顔がこう壁から突き出ているというそういう絵にショックを受けて、それがああ、つまり戦争が終わってもあの極限状況はそんなに簡単に変わらない、人間の回復なんて嘘っぱちだ、今我々が置かれてるのはこんな状態だというふうに、河原温のあの『浴室シリーズ』で痛感したのであります。
この5月に「野間宏の会」というのがあって、私は野間宏について初めて本格的に論じた。というのは、新日本文学の会員ですけど湯地朝雄君というのがいて、「思想運動」に「戦後文学の出発―野間宏の『暗い絵』と大西巨人の『精神の氷点』」という連載評論を書いている。野間宏がだめで大西巨人の方がいいという立場で、まだ連載が50回以上で続いています。ただこの論では、結局、野間宏は戦争中「人民戦線」が京大のグループに入ってきたのを見てはいるけど、傍観者であって日和見であって、結局、『暗い絵』というのは、全体として傍観と日和見の自己合理化に終わっているという論なんですねえ。というのはあの小説の中に非合法の活動にも乗り出さざるを得ないということを話し合っている友達、これは実際には「京大ケルン」というグループ、中日戦争が始まってもう共産党は崩壊してます。そういう時期ですね。ところがその非合法の活動というのは何かというと、もう完全にファシズムの時期ですから、中日戦争の始まったファシズムが一番高揚している時期です。反戦、戦争反対のビラを配って、ビラを配ればもうずうっと長期拘留、刑務所暮らしになるっていうことは分かってんだけども、そのビラを配ろうという決意を彼らは語っている。それに対して主人公は彼らに非常に共感するんだけど、ただ彼らには自己の絶対性を求める動きが欠けている。そしてそこの、このグループのたまり場を抜けて、自分の下宿を抜けて帰る山道でですねえ、日本の人民はまだ日和見主義というものを正当に位置付けていない。つまり自己保存と我執の匂いのするエゴイズムを経て、しかし科学的な自己追求の努力の追跡によって自己完成の道に至らなければならない。そういうことをまあ考えるわけですね。だけど、これ考えたというんだから小説では情状酌量の材料にはなるけども、小説っていうのは行動で展開されなければ説得力がないんで。ただ考えたというだけなんで。私はそのことを宮本百合子や武井昭夫が評価し、そして湯地も最初評価してたけども、よくよく読んでみると、これは何にもしない日和見の合理化ではないかという、論なんですね。おそらく、どんなに苦悩したかってことは別として傍観に終始したことは事実でしょうねえ、野間宏が。だけど傍観してどのくらい悪いかっていうと、その戦争反対のビラを配ってそれでもう何年も投獄されるという、そしてそのまんま獄中で死んだっていう人も出てくる。この小説は全体の時間構造がおかしくて、最初にブリューゲルの画集が出てきて、そのブリューゲルの画集が大阪空襲で焼けちゃったっていう。だから戦後の回想、全体が戦後の回想であることは明らかなんですが。そうするとですねえ、自己合理化だけじゃない。それから、その山道で考えた決意や願望というのはそんなにウエートを置いてるわけじゃない。あの小説の中で一番生きてるのは、股に穴が空いたり、手のひらの間に水かきがあったり、しっぽに、お尻にしっぽが付いているような人間、ブリユーゲルの描いたスペインの圧政の下で奇形になり不具になり、物のようになりながらなおしぶとく抵抗している農民たちの姿。それがずうっと小説を貫いていて、どうしたらそういう抵抗ができるんだろう。中日戦争の中で日本の知識人たちにはどうしてそれができないんだろうっていうことがずうっと話題になって、そっちの方がはるかに重要なんだと。つまり、そういう部分品になったり奇形になったりしたような人間たちが集団として抵抗し得たその主体、集団的主体というものがどうしたら日本に形成できるかということが、あの小説の真の主題なんだという。その点では、私は花田清輝などのアヴァンギャルド芸術の思想にむしろ惹かれてですねえ。つまりそういう単純な人間の回復なんかじゃなくて、戦争の極限状況というのは戦後もずっと形を変えて続く。続く以上は、その部品化され不具化されたような人間たちの断片の再編によって、集団的主体性をどのようにして形成するかという課題をむしろずっと持っていたと改めて感じて、その話をしたわけです。
黒田さんに入る前に前置きのつもりが少し長くなったんですが、もう1つ付け加えてやめます。その主体性という「近代文学」という雑誌の文芸批評家たちが代表し、そして吉本隆明に受け継がれたと思われる主体性の論というのはですねえ、これ文学でしかない。むしろほかの芸術では、そのアヴァンギャルド的な思想の方がもっと浸透していたというふうに、まあ、思います。ところで、70年代以後文学も美術も含めて、日本のあらゆる芸術に浸透したのはアイデンティティーという考えであって。アイデンティティーっていうのは他者との関係の中でしか見い出せないはずなのに、江藤淳によって輸入されたアイデンティティーという観念は、まるで他者から来た、外部から来た要素を全部ラッキョウの皮をはぐようにはがしていって、だれとも似てない自分だけの存在証明みたいなものですから、これはもう最初から不毛。みんな、あらゆる日本の70年代以後の芸術がアイデンティティー探しになっていて、こんなものは実りのある解答が出てくるはずがない。アイデンティティーという観念は、私が今批判した戦争直後の主体性論よりもいっそう閉鎖的で固定的です。そして、それと並んで芸術の自律性ということがまた70年代以後言われるようになった。この芸術の自律性っていうのは、私はある意味で非常に重要であって、芸術の自律性っていうのは1人の作家がどんなジャンルであれ生きてる限り政治、経済、社会、文化のあらゆる問題に直面するわけですから。ただし、それを芸術固有の方法で取り上げながら、あの、どんな社会でも検閲やタブーはあるんで、そういう検閲やタブーを巧妙にいかにくぐり抜けていくか。それによって芸術の自律性は1作1作獲得されるものだ。ところが70年代以後の批評家たちは、芸術の自律性というのはここからここまで垣根があってですねえ、芸術の範囲は決まっていて主題も表現もその中で完結しなければならないように考えてる。そこがまあ、根本的な間違えです。だから、この芸術の自律性とアイデンティティーの観念を打ち破らなければならない。70年代以後もっぱら、私は日本には、日本の芸術には人権、私の言う最高の条件の人権を扱ったような芸術がなくなっちゃったから外国の芸術に主として拠り所を求めてきたと。それが、まあ、一番親しく拠り所としたのがドイツのヨーゼフ・ボイスであって。まあ、ヨーゼフ・ボイスの弟子みたいな作家たちから考えたと。「芸術と人権」展の展示の作家たちの選考を考えたということを、まあ、書いたわけですねえ、カタログは。
そういう角度から見ると、黒田オサムという存在を私たちが知ったのは、もう今度のプログラムに書きましたけども、自由国際大学、FIU、ボイスが呼び掛けた日本の自由国際大学に、85年にある新聞記事が朝日新聞か何かに載ったんですねえ、このFIUについての。それで興味を持って黒田さんが現れた。それは、もちろんボイスの「人間みんな芸術家だ」と、そして「人間のあらゆる行為が社会彫刻だ」というその呼び掛けに共鳴したんだと思いますね。だから芸術と人権のかかわりの最低の条件と、それから、もう1つは人間のあらゆる行為は社会彫刻だっていうこのボイスの言い方の中には、絵画とか彫刻というような、そういう細分化された近代のジャンルっていうものを一足飛びに飛び越えてしまう。あらゆる手段を使って人間はコミュニケー卜し、自分の意思を伝える。あるいは、自分の意思を伝えるよりも他人を喜ばせ、他人を動かすために表現をするんであって、そのためにはジャンルなんていうことに構っていられないという考えがある。そこに共鳴したんだろうと思います。それで、このFIUに来ているうちにそのメンバーであり常連であったドンちゃんという女性が、絵をかくのもいいけどももっと踊りをやったらというふうに黒田さんに勧めた。それはしかし、別に唐突ではなかったんですねえ。山谷の生活が長い。その中でホイト芸と黒田さんが自称するコジキ芸、いわゆる一種の大道芸。これも絵をかくと同じようにですねえ、絵をかいて公募団体にいくつか出したり、日本アンデパンダンに出したりした。そういうのと並んで、要するに他人から見れば素人芸、特にいわば歌や踊りみたいなものは、その、ホイト芸といわれるように一種道化の芸、あるいは大道芸に近いもので。つまり、私が最初に言った芸術と人権の最低のかかわりから最高のかかわりまでの間をですねえ、多くの日本の芸術家はですねえ、全部独り善がりの売り込みと、あるいはコネとかそういうようなものでなんとかつなごうとしてるわけです。そして、たまたま資本や企業に認められて商品価値に作り上げられると、祭り上げられるというふうなことがある。しかし、そういう欲がないというかなあ、ないわけじゃないでしょうけども、黒田さんにはどうせ自分の芸なんてのは、絵もパフォーマンスも含めてそんなたいしたもんじゃないと。売り込みするつもりがあまりない。ただし、見てくれる人を喜ばせようという、それだけはあるんですね。あるいは楽しませようという。そこが非常に貴重なんだ。自分の売り込みじゃなくてドンちゃん、あるいは、そこに、まあ、いろんな人が介在してくる。霜田誠二氏、そして粉川哲夫氏というような人が、いろいろ水を向けて、それでパフォーマンスの機会が増える。そうすると、パンフレットを見て私も驚きましたけど、諸外国の人たちからですねえ、絶賛ですねえ、あれは。特に、そのコジキ芸、大道芸みたいな昔自分の国にもあったそういうものを思わせるということ。それから、タイのパフォーマンス作家が非常に的確に指摘してたけども、反権力というか帝国主義的なものと全く無縁でそれに反対するという、そういうアナーキズムに由来する主張が、アナーキズムって言葉で主張したんではこれほど伝わりませんけども、その身振りを通してですねえ、表れてくるもの。つまり、下層民衆の生活そのものをですねえ、別に再現しようとしてるわけじゃないけども、そこで、こう、自ずから身に付いているしぐさの体系化、しぐさ、身振りの体系化ですから、これはだれにでも通じるわけです。その上、純文学や純粋芸術というのは敗戦を境にしてとにかく軍国主義、侵略主義から一応民主主義へというふうな大転換が、イデオロギー的な転換ありますね。ところが大衆芸能にはそういう転換が全然ないんです。戦前も戦後もつながっている。そこがまた面白い。だから、例えばさっき言ったような、自分が生き残るためにはもう敵も味方も全部皆殺しにするほかないというような、土壇場で露出したエゴイズム。それは戦後の純文学、純粋芸術なんかにはあんまり表現されないで。大藪春彦以後のいわゆるヴァイオレンス小説と、白土三平から大友克洋に至る、劇画の世界に形を変えてその暴力性が表現されてんじゃないか。それは、まだ日本人の中からなくなっていない暴力的エゴイズム、これを客観的に見つめて分析してるかどうかは別として、劇画の世界というのはその発散の場になってきたんじゃあないかというふうに思いますが。そういうものにつながるホイト芸、大道芸、道化芸の伝統、それは戦前、戦後というような区切りを超えている。それから、次に国境を超えますね。言葉を介しイデオロギーを介しての表現じゃないから、どこの国の人にも触覚的にというか、ストレートに通じます。そこはすごいところです。
もう一度繰り返せば、自分に売り込み、独り善がりというふうなものがなくて、それが他者によって発見されて、そして、しかも自分の中に他者との関係で、小規模ながら他者との関係で受け答え、ただ闇夜に向かって鉄砲を放つみたいな表現じゃなくて受け答えの歴史があったから、そこで確かめられてきたものが非常に生きてきたという。それは非常に、戦後の歴史をずうっと振り返ってみても貴重なことで、こういう存在っていうのはそんなに多くいるわけではない。だから、ご本人も周りもですねえ、ますます大事にしてほしい。もう1つは、私はそのプログラムに、少しうまくなり過ぎたからもっとフォークロア的な民衆芸能みたいな民衆の、つまり自分じゃない集団としてのですねえ、そういうしぐさみたいなものをもっと発掘する方向にいったらいいんでないかということを書きました。それと別のことではありませんが、今日あの2階で個展などを見まして、あのデッサン、漫画ともつかずイラストレーションともつかないデッサンが面白いのは、特に、まあ、あのドンちゃんがあれを見て「黒田さん、踊りをやったら」と言ったそのポイントはですねえ、あれらの絵では状況がそのまま人間の身体になっていることですよ。人間が、まるでロボットやサイボーグのような状況の機械化されたシステムそのものを体現して、そして半ば機械化したようなそういう存在になっているところです。それがパフォーマンスにもつながっているとすれば、これはまさにチャップリン、チャップリンになり得る素質がある。そして、それはより一層、つまり機械との格闘、機械や社会的システムとの格闘を通してですねえ、ついに民衆、これはベンヤミンがそういう夢を抱いていたんですが、機械やテクノロジーに人間が振り回されるのではなくて、プロレタリアートがそういうテクノロジーを完全に自分のものとして使いこなすことができれば、そこで一種の革命が、文化革命が起こるんだと。それを夢見ていたわけで。あの写真から映画からアウラっていうものをなくした複製芸術に彼が期待をしていたのはそこなんです。そうすると、黒田さんの踊りっていうのはもっとビデオや映画やですねえ、そういう映像とも結合し、さらに機械的な要素を取り入れて、そういう方向に発展していく可能性もあるんじゃないかというふうに思います。
(2001年6月30日 『このジイさんの生き方はなんだ!? アナーキズム、山谷、絵とパフォーマンス!!―黒田オサムさんの古稀を祝う会―』にて)
[案内チラシ・オモテ面]
[裏面]
ページ先頭へ